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by tomha090
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始まりの予感と雨

ムーン・ダンサー号が大波に押し上げられ、波を滑り落ちるあいだ、ケイトはペンを握り
しめていた。航海日誌にはほんとうの航海の様子は書かれていない。苦難も秘密も悲しみも、
いま直面している危険についても、いっさい表わされてはいないのだ。それを書きたくても
書くことはできなかった。父の指示ははっきりしていた。事実だけを書け。
不安を書き表わすことはできなかったが、不安でたまらなかった。天候が急変し、気圧が
下がっていた。大きな嵐が近づいていた。コースを変更すれば、貴重な時間を失うことにな
る。父がそのような選択肢を考盧に入れるはずがないのだ。現在ケイトたちの船は二位につ
けている。二位にいるのだから、荒れ狂う海に向かってまつしぐらに進むしかないのだ。風
がヒューヒユーとうなりはじめた。

今夜はたいへんなことになるだろう。みんなすでに緊張大荒れ、三角波、激しい波雨、雷、稲光でピリピリしている

船のあちこちで言い争う声が響く。ケイトはここを去りたかった。妹
たちを家に連れて帰りたかった。だが家はこの外洋のはるか彼方にあるのだった。
「ケイト、上がってきて!」誰かが叫んだ。デッキに上がると、すさまじい嵐に心底ショックを受けた。あまりに激しい雨風に顔の皮
は層さえ剥がれるような気がした。一歩でも進み、帆をおろし、荒天用の船首三角小帆ストー
ムジブに変える手伝いをしなければ、と思った。だが襲い来る大波に目は釘付けだった。波なんどきの高さは四○フィート以上ありそうで、どんどん大きくなっている。いつ何時、あの波がこ
の船を襲うかわかったものではない。こんな状態でどうやれば生き残れるというのだ。もし生き残れなければ、この世界一周レースの真実を誰にも語って聞かせることはできな
い。

「風が吹き荒れ狂う大波のなか、巨大な竜は暗く深い海底へと沈んでいきました。今度また
赤ちゃん竜に近づく船乗りが現われるその日まで、姿を現わすことはないでしょう。おしま
い」


三歳から十歳といった年頃の子どもたちは、彼女の店〈ファンタジア〉の隅に設えた、厚い
ふんわりしたクッションに腰かけている。みんな、週三回ケイトが絵本を読んだり、お話を
語り聞かせる会を楽しみにやってくる。最初のうちこそ、子どもたちはおしゃべりをしたり
そわそわと落ち着かなかったりするが、お話が始まると一心に聞き入る。この催しは書店経
営に特段の経済効果をもたらすわけではないが、それでも彼女にとって、何よりの楽しみと
なっている。

「もう一つお話してよ」ケイトの隣りに座る幼い女の子がねだった。
「もう一つやって」ほかの子どもたちが、声を合わせていった。

ケイトはその声に負けそうになったが、壁の時計に目をやると六時五分前になっており、

金曜の夜である今夜ばかりはぜひとも定刻に店を閉めたかった。今週は忙しい日々が続き、
かいこん週末の旅行者たちの到着に備えて在庫品の開梱をすませておかなくてはならない。「今日は
これでおしまいよ」とケイトはいい、立ち上がった。子どもたちは不満を口にしながらも、
少しずつ店から出ていき、母親たちの何人かは戸口に向かいながら買い物をしていく。
「素敵なお話だったわ」テレサ・ディラントーニはいった。「自作なの、それともどこかで
読んだことがあるの?」

「その両方よ」ケイトはアシスタントにいった。「父が昔よく海底に棲む竜の話を聞かせて
くれたの。一度カリブ海の外側を航海していたとき、海面に火がついたように見えたことが
あった。私はあれが竜なんだ、父のいったことはほんとうだったって思ったわ。でもそれは
りん
結局燐によって発光する藻だとわかったのよ・それでも私たち姉妹は火を噴く竜の話を信じ
たかったわ」
「ロマンティストなのね」
「それが弱みでもあるわね」
「ロマンスといえば」lテレサの頬にえくぼが浮かび、嬉しそうな微笑みに変わった。
l「今日は結婚記念日だから、もう帰らなくちゃ。時間どおりに帰る約束をしたの。なに
しろベビーシッターは二時間しか子どもたちを預かってくれないからね」テレサはカウンタ
ーの後ろの引き出しからバッグを出した。「こんなにたくさん未開梱の箱があるのに、あな
た一人残して帰るのは気が引けちゃうけどね」

「そうはいっても、やっぱり帰るんでしよ」ケイトはテレサの後ろからドアに向かった。
「お行きなさいな。愛するご主人と楽しい夜を過ごしてらっしゃい」
テレサは頬を赤らめた。「ありがとう。結婚生活も八年になり、手のかかる幼子を二人も
抱えていると、自分がいかに幸運かをつい忘れてしまいそうになるわ」
「あなたは幸運なのよ」
「あなただって子どもの扱いはうまいじゃないの。そろそろ結婚を考えてみたら?」
「少しのあいだだから、うまくあしらえるのよ」
「あI、寒い」二人で店の外に出ると、テレサがいい、立ち止まってセーターのジッパーを
引っぱり上げた。「風が出てきたわね」
「南西の風ね」ケイトは無意識にそういった。長い航海で培った感覚は、一二ないし一五ノ
ットの風速値をすでにはじき出していた。「嵐がくるわ。六時には。傘を持っていくのよ」
「あなたの予報は気象予報士より当たるものね」テレサが笑いながらいった。「店にいつま
うわざでもいないように。そのうちあなたには私生活がないのかと、噂されちゃうわよ」
ケイトは友人に向かって、顔をしかめた。「私生活なら、ちゃんとあるわよ」テレサは車
まれに向かいかけており、わざわざ答えを返してこなかった。「素敵な生活がね」たぐい稀なほ
めいびどに風光明媚な土地キャッスルトンに住んでいるだけでも素敵なことではないか。ここはワ
シントン州沿岸の沖合いに位置する、サンフアン諸島として知られる百以上の島々からなる
群島のなかの大きな島である。
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by tomha090 | 2013-10-12 03:36

明日の安全と評価を求めるために

わたしと同じくらい書くことを愛し、わたしの母と同じくらい熱烈にわたしの成功を応援
してくれているおばのロレーン・ストーンへ。おばさん、わたしの味方になってくれてあ
りがとう。

麻薬取締局捜査官ケリー・スローンにとって、この偽りのエデンの園は地獄だった。二十七歳の彼女はDEAでもっとも
優秀な覆面捜査官のひとりであり、故郷のメリーランドからこれほど遠く離れたところにいるのは、それが理由だった。
たんのう黒い髪と目、スペイン語が堪能なこと、さらには化学の修士号を持っていることも、今回
のような任務に役立っていた。覆面捜査官ゆえに危険な状況には慣れているケリーだが、
今回の任務はどこか違った。


オルテガに家へ招待されてから、明日で十四日だ。その前はほかの化学者たちが働く研
究所の近くにある宿泊施設にいたケリーだが、この邸宅に移ってからは、あの手この手を
使ってオルテガをなだめ、ベッドをともにするのをまぬがれてきた。
ただ、今や時間がなくなりつつあった。オルテガを終身刑に処すことができるほどの情
報を手に入れたものの、問題がある。この二日間、ティファナにいる連絡貝との接触がと
だえているのだ。それがなにを意味するか、ケリーは考えたくもなかった。


だが、明日になればオルテガはメキシコシティへ行く。ケリーは彼を丸めこみ、一緒に
連れていくよう承諾させていた。そこで彼をまいて、アメリカに戻る計画だ。すでに彼を
終身刑に処すことができるだけの証拠は集めてあった。そしてこの邸宅に移る直前に、す
べてをアメリカの自分の住所に郵送しておいた。だから万事うまくいくだろう。ポンス・
グルーバーの裁判で証言するのに間に合うようにワシントンDCへ戻ったあとは、オルテ
ガが逮捕され、引き渡されるのを待てばいい。


ここへ来るのは危険だが必要なことだった。三カ月前、オルテガの義弟のポンス・グル
ーバーが放火殺人容疑で逮捕された。死刑は間違いないだけの証拠があり、グルーバーは
取り引きを望んだ。義兄を逮捕させるのはまた別の死刑判決を意味するので、取り引きは
ほかのことでなければならなかった。そこでDEAが、オルテガの組織のなかに捜査官を
送りこむのに必要な情報を渡さないかと打診したのだ。どこでなにを捜せばいいか教えて
くれれば、あとは当局でやるからと。グルーバーとしては、命のために情報を渡すのは大
歓迎だった。オルテガは潜入者を自分と結びつけたりしないだろうから、生き長らえるこ
とができる。

パロマ・サンチャゴという名の化学者になりすましたケリーは、たちまちオルテガの
邸宅内にある研究所になくてはならない人材となった。
そのあと、オルテガが彼女に注意を向けるのは時間の問題だった。彼は、権力があり、
見た目も悪くない自分ならケリーの心を奪うことができると思い、彼女を邸宅に誘った。
ケリーは招待を受けたものの、条件をつけた。公私混同はしないとはっきり告げたのだ。
オルテガは興味をそそられてそれ以上迫らなかったが、彼の我慢が限界に近づいているの
を彼女は知っていた
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by tomha090 | 2013-10-12 03:35